p31・32 16 戦争と疎開
<『さいお』春日井市立西尾小学校開校100周年記念ハンドブック2010>
昭和16年(1941年)から昭和20年(1945年)まで、日本がアメリカと戦争をしたことは知っていますね。日本は開戦当初連戦連勝だったために、中国の大部分と東南アジア、そして太平洋のかなりの部分を占領するおど戦線を拡大しました。しかし、昭和17年(1942年)のミッドウェー海戦を境に負け始め、昭和19年(1944年)に、B29爆撃機によって本土を空襲されるようになりました。
『さかした』によれば、この西尾小学校の辺りは名古屋市などの都会から、空襲をさけるために多くの人が疎開して来たようです。そのため、西尾小学校(当時坂下町国民学校北校舎) にも多くの転入学があり、急に児童数が増加し、現在のように1学年1学級という形をとるようになりました。木村恭三さん(安祥寺の住職)の話では、当時の西尾小学校、1・2年、3・4年、5・6年でそれぞれ複式学級だったそうです。そして、戦争のため授業がなかなか行われず、ある日、学校に行ったら知らない人がたくさんいて、子どもの数が3~4倍にもなっていた覚えがあるとのことです。この辺りは、だいたい昭和18年ごろから疎開が始まり、多くの人が親戚の家を頼って来ていたのです。
当時はこの西尾の方から名古屋城が見えていたと言います。そのため、家のなかにいると窓ガラスか明るくなって、名古屋が空襲にあっているのがわかったそうです。そして、空襲警報として寺の鐘を鳴らすと、近所の人たちが山の上に登り、名古屋の街が焼かれている景色をながめたそうです。
また、この辺りは空襲こそはなかったけれども、アメリカ軍の飛行機が飛んで来ることがあったそうです。木村さんも、西尾のタバコ屋近くの川で遊んでいたときに目撃したと言います。農村とは言え、ごの辺りも戦争と無縁ではいられなかったのてす。
『春日井市史』によれば、戦争中は、生糸の輸出はできなくなり、クワ畑も食料になる作物へ転換することになりました。戦争が、養蚕をおとろえさせるきっかけの一つになったわけです。それから、工廠と言って、武器などを生産するための軍の工場が、島居松、鷹来、高蔵寺などにつくられ、この西尾の辺りからも勤めに行った人が少なからずいたようてす。
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B29とは、アメリカのホーイング社が設計・製造した長距離戦略爆撃機のことで、ニックネームを「スーパーフォートレス(超空の要塞)」と言います。プロぺラ4発で、搭載量は最大9トン。航続距離 4,585kmで、生産数は3,900機です。1万メートルという高々度を飛ぶためにターボチャージャーや与圧室など当時の最先端の技術が投入されています。
サイパン・テニアン・グアムがアメリカ軍によって陥落すると、B29の航続距離で日本を爆撃できるようになりました。これに対して、日本は迎撃機の開発が遅れ、しかも燃料である質の良いハイオクタン・ガソリンが不足したことなどから、1944 年から日本の主要都市は絨毯爆撃にさらされ、焼け野原となっていきました。広島と長崎の原子爆弾もB29が投下したことは有名です。
日本にも、富嶽(Z機計画)というプロべラ6発の長距離爆撃機の開発が中島飛行機ですすめられていましたが、間に合わず中止されていました。
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